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病院理念

歴史 〜創立とその歩み〜

1945年、高松市は米軍の空襲により焼野が原となった。当時香川県唯一のカトリック教会も炎上した。二人の神父(サンタ・マリア師、マカリオ師)は炎の中を坂出府中に住む信徒、鎌田亀次郎氏宅に逃げた。坂出警察は二人の外人を理由もなく留置所に入れた。約2週間後、滝宮に移され、そこで8月15日を迎え、二人の神父は説明もなく釈放になった。坂出は以上のように1945年の二人の神父の非難と受難によって清められ、神様の摂理は、働き始めていた。

1947年より鎌田亀次郎氏と善業家末沢藤太氏は、人々を敗戦後の失望、無気力状態から救い出そうと坂出市にカトリック教会の設立を発起した。時の坂出市長鎌田正光氏と前記のサンタ・マリア神父の賛同を得、正光氏の(父上正憲氏)より笠山山麓の畑千坪の寄贈を受けた。教会はその半分を聖ドミニコ宣教修道女会に地域と教会に役立つ事業をするようにと分与した。修道会は直ちに病院建築にとりかかった。時の総長ベゴニア・アギレは約500年前ペルーのリマで病人と貧しい人々に生涯を捧げた黒人医師・聖マルチン修道士の保護を願って聖マルチン病院と命名し、『一人の人でも救われるために!』と坂出に出発するシスターを励ました。

1949年12月8日聖母マリアの祝日に聖マルチン病院は静かに、然し希望に溢れて開院した。院長はシスター曽我部恵美子、職員数10人、その中の5人はシスターであった。木造階建て、ベット数床、内科、外科、小児科、放射線科であった。開院当時患者様は3〜10人。開院1ヶ月後、高松宮殿下が高松におこしになり、坂出を、そして聖マルチン病院をも訪問してくださった。これを機に患者様は多くなった。『場所が悪いですな』と言う人もあった。当時は駅までわずかな家しかなく、市役所をはじめ重要機関と商店は駅より西北にあった。病院の周囲はまばらな人家と田園があり海に行くまで広い塩田があった。徐々に警察、市役所、郵便局最後に税務署まで引越され病院は誰もが『良い場所ですね!』というようになった。

開院当時より20年間、結核患者様が多くシスター松橋みつ江がその治療に専念し、屋島国立療養所長竹内正義先生が約25年間援けてくださった。

1952年、眼科を併設しシスター上野栄子が約50年間診療に励まれた。シスター上野が眼科診療を静かに行なっておられたお陰で1982年〜1995年の間、永原國宏医師により白内障の超音波手術(眼内レンズ挿入)が香川県下で逸早く行なわれるようになり、多くの人に開眼・再生の福音をもたらした。

1959年、国土忠夫医師が外科医長として就任された。この時より病院は画期的に成長期に入った。1963年、本館を新築し、レントゲンテレビ、その他医療機器を整備した。1964年、国土先生は開業の為、退職され斉藤邦雄医師が着任された。その時以来斉藤医師は病院の大黒柱となり、病院の理念と御自分のユートピアを重ね、大望に燃え、副院長として病院と職員を引っ張っていかれた。又消化器外科医として妙技をふるわれた。1995年、外来部、給食部、職員ホールを新築、改造し、内視鏡室、心電図室を2階に配置し設備を整えた。同年、斉藤医師が第2代院長に就任された。当時医療の世界は運営の難しい時代に向かっていた。然し大きな力と新しい希望によって聖マルチン病院は動きだした。同年、手術室・中央材料室を改造し、時代にあったクリーンルームが完成した。1997年、日本で唯一、即ちカトリック司祭にしてドクターである井原彰一神父様が心療内科を始められた。カトリック聖マルチン病院の特質をますます発揮されている。

消化器科、循環器科が独立し、専門分野に力を入れることになった。内科は糖尿病教室を開き、熱心に指導、診療をされ、たくさんの患者様に喜ばれている。肝臓疾患診療は堅実に実績を上げられておられる。1998年、斉藤院長から田口医師に院長を譲られた。第3代田口院長は、週休2日制とし、それまであった組織に加え運営委員会その他の多くの委員会を生み職員全員が病院運営に参加するようになった。2002年、田口医師は院長を辞職され、曽我部輝子医師が第4代院長に就任された。新院長の祝砲であるかのように職員一同の努力の結果である病院機能評価に合格した。曽我部院長は世界も日本も医療情勢も不穏の中、神様の摂理に信頼し、職員に信頼し、患者様への愛、優しさ、希望、微笑をたたえられた。2005年、曽我部医師が辞任し、西原院長が第5代院長に就任された。西原院長の指導のもと、2006年11月にはオーダリングシステムを導入し、医療サービスの内容、質の向上に力を注いでいる。医療情勢の厳しい中で今まで以上に地域の皆様に愛され信頼される聖マルチン病院を目指そうと日々努力しておられます。

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